少数派の違和感
まず、はじめにお伝えしたい事は大絶賛の中、あえてネガティブなレビューをすることに至って、当作品を評価している人の気分を害する可能性があるということを先にお詫びいたします。
今回、あえてこのような話を書こうかと思った理由に、私も友人と公開日に観にいったのですが、原作読者の私も友人も「あれ・・・?」という感情を抱いたことにあります。
また、WIREDの記事でも隠しきれない不満があることが判明。
童心に返って楽しめる映画ではあった。映画『レディ・プレイヤー1』:『WIRED』US版レヴュー https://t.co/ekGPNRTBnd pic.twitter.com/uVhS8uJ6Fc
— WIRED.jp (@wired_jp) 2018年4月23日
おそらくこの「あれ・・・?」を感じている人は何百人に一人くらいはいるに違いないと感じており、
しかし、周りの絶賛する中で言うに言えない違和感を覚えた少数派だけに「多分その正体はコレではないかな?」と伝える為にここに書き綴りたいと思います。
レディ・プレイヤー1は正真正銘極上のエンターテイメントである。
今作レディ・プレイヤー1。極上のエンターテイメント作品として仕立て上げた監督スティーブン・スピルバーグはまさに時代を作った映画界の巨匠。
私たち20代~30代にとって彼の映画を観て映画が好きになり彼に育てられ彼を目指して映画業界に足を踏み込んだ世代と言っても過言ではありません。
レディ・プレイヤー1でも観客の熱量はモニター越しにでも伝わり、如何にこの作品が多くの人の心を響かせたのか想像に難しくありません。
しかし、私はそんな神・スピルバーグだからこそ、この映画に置ける不満を隠さずにはいられないのです。
その事に置いて順に説明して行きたいと思います。
【映画と原作】
アーネスト・クライン原作「ゲーム・ウォーズ」上・下巻あるボリューミーな小説ですが、その中身はオタクと呼ばれる人なら誰もが興奮を隠せないほどクラインのポップカルチャーに対する「愛」が凄まじい作品です。
それは圧倒的に無邪気で純粋な「好き」が凝縮されたおもちゃ箱と形容する人も少なくありません。
映画「レディ・プレイヤー1」を観た人は是非、原作を読んでみる事をおすすめします。
【無邪気で純粋なアーネスト・クラインの作品を大人の映画監督として受け入れたスピルバーグ】
ゲーム・ウォーズはあまりにも無邪気で純粋なおもちゃ箱だと言いました。
それをひっくり返して「さぁどうぞスピルバーグさんお造り下さい」と言われた時、彼は童心に戻って
そのおもちゃを懐かしがりながら胸を踊らせた・・・訳では無いのです。
彼は一人のオタクとしてでは無く、偉大なハリウッドの映画監督としてこの作品を受け取ったのです。
それが何の問題なのか、
全く問題ではありません。
しかし、私は私の全く個人的な感情でスピルバーグには
巨匠としての映画監督では無く一人のオタクとして、この映画に取り込んで欲しかったのです。
ジョージ・ルーカスがスターウォーズを仲間内で観せた時の話。
「なんて幼稚な映画だ、観るに耐えない」「今まで観た映画の中で最低の物だ」と酷評の嵐だった中
スピルバーグただ一人だけが絶賛し、その理由に「『スター・ウォーズ』が信じられないぐらい無邪気でナイーブだからだよ。あの映画は、ジョージ・ルーカスという人間そのものなんだ。観客はきっとそんな彼を愛すると思うよ」と言ったのは有名な話。
そしてゲーム・ウォーズも「あの小説はアーネスト・クラインという人間そのものなんだ」
と思わない訳が無いはずですが、スピルバーグはパンフレットのコメントでも
「本当は別の監督にやってもらう必要があった、アレは僕への愛が強すぎる(要約)」
と、ちょっと乗り切れてない感じがひしひしと伝わって来るのです。
「原作を読んでワクワクした、興奮した、コレを俺が作らない訳には行かない」とまでは行かず、
「しゃーねぇ俺が作ってやんよ」という男気で作ったように感じられます。
だからこそ、暴走しがちな原作に偉大なるスピルバーグ監督として、この映画を最高にエンターテイメントで誰もが楽しめる映画として作り上げる事ができたとも言えるのでしょう。
【原作は大人帝国の逆襲である。】
原作の終盤ではハリデーの生涯の友人、オグデン・モローがランクランカーの彼らをIOIから匿い、支援してくれます。
そこで語られるハリデーとの青春と決別、そして後悔と友情。
意図的かは分かりませんが、ジョブズとウォズをモチーフにしていると連想させます。
ハリデーと言う人物をめぐる物語であり、ハリデーという人間を中心にした80年代ポップカルチャーの肖像でもあるのです。
コレは80年代を生きたカルチャー民の青春であり、過ぎ去った過去に固執する男の狂気でもあります。
言わば「クレヨンしんちゃん・大人帝国の逆襲」だと私は捉えています。
【太陽の塔】
「大人帝国の逆襲」に置ける太陽の塔は何なのか。
あの世界の大人達は芸術作品としての「太陽の塔」が大好きなのではありません。あの時代、あの時、感じた青春・興奮・夢のシンボリックな対象として「太陽の塔」が好きなのです。
「太陽の塔というキャラクター」というよりは「太陽の塔=大阪万博=あの時代まだ夢があった人達の興奮」という文脈に置き換えていたのです。
ゲーム・ウォーズに登場するキャラクター達はそういった意味合いでの象徴。
私や友人はそう言った捉え方で原作を愛読していた物ですから、キャラクターの持つ力そのものには感情は揺さぶられなかったのです。
映画を評価しているほぼ100%の人にはキャラクターの持つ力に魅了され讃頌している事でしょう。
それは完全にスピルバーグの狙いであり、それを否定する事はできませんし、否定するのは野暮です。
ですが、映画を視聴したなら、ご存知の通り、この映画は決定的に「青春と狂気」がごっそり削られており、私にとっては優先度の低い「キャラクター」の持つパワーに重点が置かれていました。
ゲームウォーズから感じたクラインの「青春と狂気」=「大人帝国の逆襲」
スピルバーグは「大人帝国の逆襲」はいらないと、そこを取り除いたのです。
一言でまとめるなら「ノスタルジー」の欠如。
だからこそ、違和感を拭い去る事ができず、皆さんと同じ熱量に至る事は無かったのです。
【80年代を作った男と80年代を愛した男】
では何故、スピルバーグはノスタルジーを放棄したのか。
ここまで書いてきて自分自身で気づいた事があります。
それはスピルバーグは常に「最先端」を走っている事でした。
方や、ゲームウォーズは過去を永遠に抱いている作品。
「80年代ポップカルチャー」という色目で見れば、その時代を作ったスピルバーグが監督をするのは他に適任者はいないように感じますが、実は全く相反する存在だったのです。
作中でも「過去に固執するな」というメッセージが強調されていますが、スピルバーグはそもそも最初から過去に固執しない存在なのだと思います(歴史的過去の話を描いている監督作品は多々あれど)。
そして、そう思ってたまたま読んでいたレディ・プレイヤー1評のブログにこう書いていました。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-624.html
一つには、オマージュをオマージュに終わらせなかったことだ。過去の時代――1980年代――を振り返るのではなく、当時から今に至るも現役で活躍するスピルバーグが前面に出ることで、本作を昔好きだったものに執着する愛好家だけの映画に終わらせなかった。
そう、このノスタルジーの消失は「決定的に意図的」だったのです。
私達が感じた違和感の正体は完全にスピルバーグそのものが作りだした物。
では、これに固執する私達が悪いのか?
それは違うと断言できます。
この作品を観た人は「私はオタクである」と豪語していると思います。
そんな人は誰もが一度は言った事があるでしょう「こんなの◯◯じゃない!」「◯◯は良かった。」と、
それを発言した事のある人は、また別の誰かのこの発言を否定する事はできません。
究極的には「好きな人だけ見ればよい作品」と。
原作という「好きな人だけ読めば良い作品」を。
スピルバーグの最高のエンターテイメントは愛好家だけが独占する事も許されない一つの聖域を作り出してしまったのです。
【DAICON3】
SNS上ではレディ・プレイヤー1はDAICONオープニングだと例える人が多々います。
DAICONオープニングとは何なのでしょうか?
あれをただ「オタクが好きなキャラクターを好きなだけぶっこんだお祭りアニメ」
と捉えているのか。
それとも「若者がチャンスを与えられて自分の好きを他人と共有するための記号」
として捉えているのか。
もし、今のガイナックス(そして、この場合、岡田、庵野、赤井、山賀および主要メンバーが全員そろっているという条件で)が今DAICONオープニングを制作した場合、おそらくそれはとんでもなく面白い作品になるのは間違いないのですが、彼らが最初に創造したDAICONオープニングの持つ情熱や純粋さ、そして「青春と狂気」はそこには無いでしょう。
おそらくガイナックスの人たちも「作るには作るがそんなの焼き増しだ」と言うに違いないです。
それをスピルバーグは「ゲーム・ウォーズ」から感じているのは明確で、「この映画はオタクへの祝福なんだ」と監督自身発言していますが
「本当にそうなのだろか?」と思わずにはいられないのです。
【そもそもパーシヴァルやアルテミスの好きはかなり歪んだものである。】
21世紀生まれのアルテミスやパーシヴァルが80年代の音楽や映画やコスチュームで「イカしてるね君」
という状況は本来とても違和感のある状況なのです。
彼らが自主的にその80年代カルチャーを発見し、好きになっていったのではありません。
彼らはハリデーの宝探しをして行く過程で、彼の「好き」を強要され、それが彼らガンターの世界での「常識」になっているのです。
何だか昨今のSNS等を彷彿させるような部分の本質をキャラクター達に少しボカされていないでしょうか。
【オタク達に対するアンチテーゼ】
原作でも映画でもどちらにも共通するテーマそれが「引きこもってないで外に出ろ、現実こそが人生だ」
作ったお前が言うなと言う感じですが、コレは強烈なオタクに対するアンチテーゼなのです。
余談ですが、映画では主人公5人のキャラクター性がかなり変更されており、原作ではにきびで小太りだったり、引きこもりだったり、不細工をコンプレックスにしていたりと
かなり「所謂」な心に闇を抱えた少年・少女達でした。
映画の性質上それは仕方が無いのですが、美形だったり、武術に優れていたり、天才少年だったりと割と全体的な美化が入り、この最後のテーマに対する「共感」が少し薄いと思います。
「OASISでは何にでもなれるし、どこにでも行ける」という私達が逃げ込みたい場所、居座りたい場所、だけど、それより君は現実に生きているんだ。だからそんな物はほどほどにして、現実をちゃんと生きて欲しい。
これが本質的な我々に訴えかけるメッセージ。
ですが、オタクである私たちはそれを真に受け取る事はできていません。
それは、絶賛する本人が気づいているはずです。
ガンダムがどうだ、メカゴジラがどうだという感想、それは我々のネットに取り付かれた呪縛を物語っており、
既に我々は本当に何が正しい現実なのかを見失ってしまっているのです。
そのパンドラの箱は本来、「物好き」だけが独占していた物なのをスピルバーグは世界に壮大に解放してしまったのだと私は思います。
以上が私の違和感の正体についてでした。
「難しく考えすぎだよ。純粋に作品を楽しめよ」
という人もいるでしょうが、たぶん、それが正解で、私は難しく考えすぎなのだと思います。
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